変なおじさん

12歳くらいのころ、真理(正しいこと)を明らかにすればすべて正しくなるし、僕は、そして、誰もが、そうしなければいけないと信じていた。宇宙の真理も、道徳的な正しさも、すべては1つだと思っていた。ぼくは、将来、物理学者になればいいのか。それとも、哲学者になればいいのか。(でも、手塚治虫みたいな漫画家にもなりたいなあ。)

15歳くらいのころ、相対主義的な考え方を知った。ほんとうは、絶対の真理なんかないんだ。そうなると、僕のやるべきことは、僕の特性、例えば、論理的思考力などを、最大限に生かすくらいしかない。じゃあ、数学者になろうか。でも、学究の生活はつらそうだ。(シンガーソングライターとかになったほうが幸せじゃないだろうか。)

偏差値の高い理系の高校に入って、僕と同じくらい頭のいい友達たちと刺激的な議論の日々が待っているかと思ったら、そんな奴はいなかった。みんなただ将来のことを考えて塾通いして無理やり点数を取ってるだけだった。教師たちもまるで魅力がなかった。そして、理数系の学問も思ったより楽しくないし、僕にその才能も無いようだった。むしろ、ろくに本も読まない同級生たちのなかでは文系の才能があると言われるようになった。受験勉強からの逃避に現代詩文庫を読んだ。小沢健二を知って衝撃を受け、恋愛原理主義者になった。好きだと思い込んだ同級生に「コクハク」して振られた。

文学部の芸術学専攻に入った。これからは何でもできると思って、舞い上がった。しかし、何でもできすぎて、何をしたらいいのかわからなかった。名門大の文学部に来るような若者たちに混じってみれば、僕は何の個性もない(「キャラ立ち」しない)田舎者だったし、都会の1人暮らしは訳が分からなかった。サークルをいくつも渡り歩いた末に、部屋に引きこもるようになった(つまりあの『四畳半神話大系』を地で行った)。1年半くらい引きこもったあとに、文芸部という地味なサークルと黴の生えたような零細研究室に居場所を見つけ、大学生活が楽しくなった(というよりも最高だった)。友人たちのなかでは、「無邪気で陽気な王子様風」というキャラを獲得したが、女性関係はパッとしなかった。7年かけて学部を卒業した。

20代、僕のモットーは「ノリと勢い」だった。意味なんてもう何もないんだし、何かをする理由なんて1つもない。でも、それって逆に言えば、何もしないでいる理由もない、ってことじゃない? すべては無根拠で、その無根拠性にすら根拠などないのだった(まだギリギリ、ポストモダンの夢を見ていられる時代だった)。根拠なんかより、生理的なリズムがすべてを運んでゆくのだ(とかなんとかいって、ブラジル音楽の「サンバ」にはまった)。

大学図書館でブラブラしているうちに、自分ごときでもなんとかできる気がするトピックに出会い、大学院に進んだ。院試は楽勝だった。修士課程ではいわゆる「学歴ロンダリング」の女子たちに囲まれて楽しかったし、学問的にもふわふわした研究科だった(レジュメの例文などに、僕は、さりげなくオザケンの歌詞を引用した)。特筆すべきは、クラスメートの帰国子女風の美少女に激しく片思いして、――恥ずべきことに――、独りよがりな恋に落ちた若い男がとりがちなあらゆる奇行の限りを尽くした。

そして、博士課程に進学したとき、現在にまで続く、終わりの見えない孤独の日々が始まった。懸案の哲学問題を解決し、あるいはなんとかしてこの衰退しつつあるアカデミアに自己のニッチを確保しようとして、ぼくは柄にもなく少しムキになっていたのかもしれない。あるいは、子供のころのあの純粋な探求心が蘇っていたのか。奨学金(という名の借金)生活と、単位修得退学後のフリーター生活。それは、今も続く、何かグロテスクな、非本来的な「生活もどき」なのではないか、という気もする。そうしたなかにあって、僕が30を少し越えたあたりに過ごした、あのずいぶん年下の「後輩」(彼女は最初のころ僕のことを「先輩」と呼んでいた)との半同棲生活は、(陳腐な比喩で言えば)砂漠のなかのオアシスのような、僕の(しょうもない)人生に与えられたクリスマス・プレゼント的な僥倖だったのかもしれない。

博士論文は不合格に終わり、僕の最終学歴は、「博士後期課程単位修得退学」となった(昔だったら、結構すごい学者がこの学歴でやっているのだ)。それからなんだかよくわからない感じで数年を過ごし、最近、この不合格に終わった博士論文で論じたかったテーマに自分なりの結論が出た(と思う)。そう。僕はずっとこの問題を考え続けていたのだ。真理とは何か。善とは何か。幸福とは何か。そういうことについて。

でも、その結論が出たからと言って、僕はこれからどうすればいいのだろう。ノーベル賞かなんか獲って、世界的な有名人になるだろうか。いや。今時そんなこともないんじゃないだろうか。だいたい、この発見を論文にしたとて、誰かが興味をもって読んでくれるものだろうか。どうせ何かお金儲けとかの役に立つわけじゃないし。

そんなことをつらつら考えて眠れない夜を過ごしていた最近、私はふと思い当たったのだが、これからは「変なおじさん」として生きてゆけばいいんじゃないだろうか。

確かに、ぼくにはもう、若いころのような闇雲な元気はない。見いだした「真理」も、そんなに心躍るものではなかった。でも、そんな今のぼくにしかできないこともあるんじゃないだろうか。ワクワクすることよりも、ワクワクさせることを考えてみたらどうだろう。年下の可愛い友達たちは、あのかつての半同棲のx子も、妹が出産したy子も、バイト先の同僚のz君も、皆、何かこれから先のワクワクに向けて顔をテカらせているではないか。彼女たちを楽しませ、励ますことが何か僕にできないだろうか。

そのためにこそ、ぼくは「変なおじさん」になろう。と、思うのだ。その私生活は謎に包まれ、とりわけ渋いわけでも、ダサいわけでも、説教臭いわけでもなく、何と言っていいのかよくわからない、ただただ「変な」おじさん。それがこれから先のぼくのアイデンティティーとなる。いろいろつまらない経験を重ねてきた今だからできる。20代の僕には、できなかったことだ。そういえば、僕は子供のころから、ずっと、変なおじさんになりたかったのではないか。そんな気がする。

そうやって死ぬのなら、いつか、死んでもいい気がする。