詩は感情の表現ではない

『猫とロボットとモーツァルト』という優れた芸術論でも知られる哲学者の土屋賢二氏によると、

実際に音楽を聞いて楽しんでいるとき、自分がいまどんな感情をもっているかとか、演奏者が何を感じているかといった事実よりも、音の面白さの方がはるかに重要である。その音が何を表現しているのか、心の中を表現しているのか、などはどっちでもいいことだ。人間の感情や思想よりも、音の流れのほうがはるかに面白いし、奥が深い。(『哲学者にならない方法』p. 144)

このことは、スポーツ観戦、映画、文学についても同様だという。作り手や受け手の心の中などより、そこで起こっている具体的な現象のほうがはるかに重要だ。少しでも芸術の味を知っている人には常識だろう。

至高の芸術たる詩が例外であるはずはない。ところが、詩については、他の芸術ジャンルでは考えられないほどの心理主義というか動機主義というか技巧の軽視がまかり通っている。詩人の心が美しくありさえすれば、それにどんな表現を与えるかは本質的ではない、とでも言いたげな幼稚な詩や詩論がはびこっている。

この理由は、おそらく、2つある。1つは、真の詩作品の成立というものがあまりにも困難で奇跡的な事態であるために、多くの人が詩に出会う経験をしていないこと。もう1つは、詩の実体である言語というものがあまりにも基礎的で生活に密着したメディアであるために、透明化され、それ自体が具体的な物理現象であるという事実が忘れられがちだということだ。慣れ親しんだ卑近な言語というものがときに詩にもなりうるのだと思い至らない人々は、その美しさに打たれ、それが書き手の心の美しさに由来するものだと誤解してしまうのだ。

詩は、そこで語られる思想や感情のゆえに詩なのではなく、その言葉のそのあり方が詩なのだ。

ぼくは詩が好きだから、詩の良さがわかる人がもっと増えてほしい。外国語の詩を翻訳だけで読んで詩を味わった気になっている人が多いのが、悔しくてならない。それは、あらすじだけ読んで映画を観た気になるのと同じだ。言葉に不器用な詩人などというのは、音感のない音楽家と同じだ。母語の持つ微妙な味わいに通じた人なら、外国語を理解するのに苦労するはずがない。それは、和食の優れた料理人が中華料理やイタリヤ料理の味がわからないわけがないのと同じだ。

 思潮社周辺のいわゆる詩壇の最近の詩人たちにも、ぼくはすっかり失望している。