今日の夢

かくれんぼまたは鬼ごっこを発展させたようなゲームをしている場面。

80年代か90年代のビデオテープを見ている場面。そのなかにはフリッパーズギター出演のCMもあった。

本かゲームソフトか何かを買おうとして、お金がなくて、連れの女性に1000円貸してもらう。

 

Why Do Japanese Slurp Up Their Noodles?

You might have sometime been told that you should make noise and ‘slurp’ your Japanese noodles

and that it is to show how much  you appreciate the dish

(cf. The Right Way to Eat Cold Soba Noodles - Stop Eating it Wrong, Episode 51 - YouTube).

In my opinion, however, that is incorrect.

Oh, yes. You SHOULD make noise and slurp,

but it is not because you show your appreciation that way.

Following is what I, who am a native Japanese, have found from my experience and introspection.

 

As many advisers put it, one big reason is that it enhances flavour.

Slurping up noodles means breathing up into your nose the air

full of odour molecules of rich ramen aroma or of subtle scent of soba.

I do agree with them on this point, but do not think this is the biggest.

 

The secret of slurping is the sense of swiftness.

This may be what few have pointed out.

According to typical account of Japanology,

Japanese people do not like to stick to things too much.

Noodles have been FAST food

--if my memory serves me correctly--

since Edo period, and hence should be eaten fast.

Be quick. Do not chew them long. Just slurp up and swallow.

The slurping style certainly helps you eat fast, and on top of that,

the noise made along will make you feel it even faster.

 

What are noodles? Why should food be in such a string-thin shape?

I fancy that they originated from the shape of flowing water.

Like running river or falling rain,

Asian chopstick-eaten noodles ‘stream’ into your mouth, in Japan especially.

Remember that it consists of rainy islands packed with hills and mountains,

where rivers are many, short, and rapid.

It is therefore overflowed with noise of running water.

The noodle sound remindes them of cool water stream

especially in hot, humid summertime.

 

This is the true reason why Japanese people are so big fans of slurping noodles

and so recommended to you too.

When giving a nice slurp to your noodles, you are like a cool little stream in June Japan.

Never be a big Niagara Falls.

 

Or all your base are belong to us.

詩は感情の表現ではない

『猫とロボットとモーツァルト』という優れた芸術論でも知られる哲学者の土屋賢二氏によると、

実際に音楽を聞いて楽しんでいるとき、自分がいまどんな感情をもっているかとか、演奏者が何を感じているかといった事実よりも、音の面白さの方がはるかに重要である。その音が何を表現しているのか、心の中を表現しているのか、などはどっちでもいいことだ。人間の感情や思想よりも、音の流れのほうがはるかに面白いし、奥が深い。(『哲学者にならない方法』p. 144)

このことは、スポーツ観戦、映画、文学についても同様だという。作り手や受け手の心の中などより、そこで起こっている具体的な現象のほうがはるかに重要だ。少しでも芸術の味を知っている人には常識だろう。

至高の芸術たる詩が例外であるはずはない。ところが、詩については、他の芸術ジャンルでは考えられないほどの心理主義というか動機主義というか技巧の軽視がまかり通っている。詩人の心が美しくありさえすれば、それにどんな表現を与えるかは本質的ではない、とでも言いたげな幼稚な詩や詩論がはびこっている。

この理由は、おそらく、2つある。1つは、真の詩作品の成立というものがあまりにも困難で奇跡的な事態であるために、多くの人が詩に出会う経験をしていないこと。もう1つは、詩の実体である言語というものがあまりにも基礎的で生活に密着したメディアであるために、透明化され、それ自体が具体的な物理現象であるという事実が忘れられがちだということだ。慣れ親しんだ卑近な言語というものがときに詩にもなりうるのだと思い至らない人々は、その美しさに打たれ、それが書き手の心の美しさに由来するものだと誤解してしまうのだ。

詩は、そこで語られる思想や感情のゆえに詩なのではなく、その言葉のそのあり方が詩なのだ。

ぼくは詩が好きだから、詩の良さがわかる人がもっと増えてほしい。外国語の詩を翻訳だけで読んで詩を味わった気になっている人が多いのが、悔しくてならない。それは、あらすじだけ読んで映画を観た気になるのと同じだ。言葉に不器用な詩人などというのは、音感のない音楽家と同じだ。母語の持つ微妙な味わいに通じた人なら、外国語を理解するのに苦労するはずがない。それは、和食の優れた料理人が中華料理やイタリヤ料理の味がわからないわけがないのと同じだ。

 思潮社周辺のいわゆる詩壇の最近の詩人たちにも、ぼくはすっかり失望している。

付き合いはじめのころの夢

女の子と付き合いはじめの夢を見た。

小柄な、かわいい子で、今思えばぼくが知っている人のなかで一番近いのは、院生のころにブラジル音楽サークルを立ち上げようとして集まった女子2名のうち学内の学部1年生のほうの子だ。でも、その子よりは活発でよくしゃべる。

大学か高校の学園生活の場面がいくつかあったようだ。その子はぼくのことを「先輩」と呼んでいた。

「情報」の授業開始前、隣の席同士で何か会話しながらグーグル検索などするのだが、その画面が大教室の前の画面に映し出されてしまう。その設定を解除する仕方を2人とも知らない。だけど、誰が映しているのかはどうせ誰にもわからないから、別にいいかと思って、そのままデートの相談などする。

実は地下アイドルか何かなのか、それとも、単に習い事の発表なのか、会場内に複数のステージが設置してあるタイプの野外イベントで、彼女はグループの1人として歌を歌う。うまく歌えるか本人も心配していたが、当日、観客の人ごみに紛れて聞いていると、歌っているその曲のメロディーは「そばかす」の丸パクリだった。

「映画祭」に2人で来ていて、元彼女に遭遇する。「しかしこんなにブサイクだったっけ」と思ったが、よく考えたら元彼女じゃなくで高校の元同級生のデブ男だった。(元彼女は、あらためて別の場面で登場し、その小柄な子とどちらが好きなのか、なんとなく選択を迫られるような状況になった)。映画を一本観て、ちょっと早いけどお昼にしようか、となって、入店し、せっかくなのでその男も一緒に、「じゃあ、3名で」と告げたらその男の連れの女性が来たので「やっぱり4名で」と言ってカウンター席に通されたところで目が覚めたような気がする。ちらっとしか見えなかったけど、その女性は意外にも美人だった。

「好き」とか「付き合おう」とか口に出して言うこともなくキスもしていないけど、知り合い始めから、会話がはずんで、自然と一緒に行動することが多くなって、なんとなく体を触られたり頼られたりするようになって――と、今まで生きてきたなかで似たような場面はいろいろ覚えがあるものの、ここまでかわいい子にここまで順調にモテたことは、実際には一度もない。さすがに夢だけのことはある。目が覚めて、まず、「おれ、実はこういう小柄なかわいいタイプの子も好きなのかも」という感想を持ち、また、男女交際とは良いものなのだと再認識した。もっとがんばってモテる努力をしてみようという気になる(例えば、定職に就くとか)。

細部をちゃんと思い出せないのが残念なくらいの夢だった。その女の子は頭がいいらしく、言うことにしゃれが利いていて、本当にぼくたちは気が合うようだった。というか、「もしかしてぼくたちはものすごく相性がいいんじゃないのか」ということを実感し始める頃合いの、そんなうれし恥ずかしな日々だった。その感覚はくだんの元彼女に似ていなくもないが、それをもっとシュッとした細身な感じにしたものとでもいうか。

なかの一場面で、広々した丘のうえの住宅街の、何車線もある道路のわきのベンチに座っている。すると、右手の地平線のむこうのほうから、あるいはその上空から、世界を滅亡させる何か、隕石か、怪獣か、そんなものがやってくる。映画の話かという気もするが、現実に起こっていることなのかもしれない。そうこうするうちに、実際にそれは来てしまう。まっくらな「無」のなかで、ぼくらは強く抱きしめあう。

 

濡れない水(2017年5月18日に見た夢)

「京都」にある森のなかの小さな神社。両親と来ている。薄暗く涼しく、しかも今日は人も少なくて、とても落ち着く。

賽銭箱のまわりには、腐葉土の地面から湧き水があふれていて、それはとても清らかなさらさらした水なので、浸かっても、衣服が濡れたりはしない。

その感触を楽しんでいると、だんだん足が落ち葉のなかに沈み込んでくる。

「はまって、抜けられなくなるぞ」と父に注意されるが、本当に、腰のあたりまで、空気みたいな感触のその流れる水の中にはまりこんでいて、抜け出すのに苦労した。

出演依頼(2011年6月14日に見た夢)

大学を歩いていたら、たくあんを噛む音をパーカッションにするとかなんとか、学生が話しかけてきた。

聞いてみると、映画を撮ろうとしていて、そういうことをする役が空いてあるらしい。スカウトである。歩きっぷりから僕のリズム感を見抜いたのだろう。快諾した。

撮影は今度の日曜日。