恥ずかしながらも、行ったり来たり

小沢健二の「ウキウキ通り」は、現世そのもののメタファーなんじゃないか。

私たちの人生に究極の理由や目的なんてないように思える。

 

生きることは、気まずい。

 

女の子のしょうもない物欲をかなえてあげる気まぐれか、

いつかそんな日が来てもいいように男前な自分でいようという柄にもない勇ましさか、

それとも、「それだけが、この世の中を熱くする」からなのか、

なぜかはわからないが、こんな寒い日にも、通りを歩いていくのだ。

 

 

オザケンは、ラブソングであっても、恋愛のことだけじゃなくて、恋愛を通して何か人生とかそういうことを歌っているようなところが、いいと思う。

例えば「僕らが旅に出る理由」。1番の「遠くまで旅する恋人に」という恋愛の話から2番の「遠くまで旅する人たちに」と人類愛の話になる。いかにも優等生という構成が愛らしい。

 

オザケン

昔からファンなので、小沢健二氏はよく夢に出てくる。直接言葉を交わしたり、聴いたことのない新作が聴けたりする。夢で聴く曲は、たいてい、現実のどの曲よりも高品質で複雑精巧できらきらしていて、まさに夢のような曲なのだ。

今回は、野外コンサートで、『LIFE』の1曲によく似た新曲か、歌詞だけ替え歌して長くしたような曲をやっている。雰囲気は「アルペジオ」にも似ていた。つまり、今回は珍しく、みんなで声を合わせて歌うのに向くような、素朴で陽気で親しみやすい感じのやつで、上述の「夢のような」複雑な曲ではなかった。

と書いていて思い出したけど、こないだの「春の空に虹をかけ」で聴いたいくつかの曲は、それ以前に夢で聴いていた「複雑精巧できらきらした」非実在の曲のイメージにかなり近かったと思う。ということは、今回の夢で聴いた「さよならなんて云えないよ」っぽくも「僕らが旅に出る理由」っぽくも「アルペジオ きっと魔法のトンネルの先」っぽくもあるけどそのどれとも違う、何番も何番も続くみんなで歌うような曲も、そのうち本人が現実化してくれるかもしれない。

さて、そんな平和な曲をみんなで歌っているとき、なぜかオザケン本人も客席で、ぼくのすぐ前の地面にすわっている。かれは隣の友人や知り合ったばかりの人といろいろ話していて、ぼくも少し勇気を出して話しかけ、会話に加わる。たしか何らかのコンシューマー機の、ゲームの話だった。憧れのスターにもそんなオタクっぽい一面があるのだ。話してる最中にTシャツの隙間からつるっとしたおなかの肉が見えたのを覚えている。意外と脂肪があった。このように、小沢氏が夢に出てくるときは必ずと言っていいほど、「意外とかっこわるい」「意外と卑近な」ところがあって、こちらと対等な感じで仲良くなる。スターを自分のところまで引きずり下ろしたいという願望なのだろう。

編入学生

これはいつからか繰り返し同じモチーフで見ている夢。

年下たちに混じって学生生活をしている。そこは大学か大学院のようにも思えるが、難関大の入試に向けて勉強しているようなので、高校なのだろう。

自分の歳は、現実同様40前という設定なのだろうか。もう少し若い気もする。学び直しのためというよりも、制度上の問題で、受験資格を得るために在籍しているという雰囲気がある。「そういえば自分だけ年上だ」と思い出しては、少し肩身の狭い思いをしている。

このような夢を見る原因は明らかだ。博士課程満期退学後何年も経つが、博論に書こうとしていた研究をまだあきらめきれていない。今も大学生に混じって塾講師のアルバイトをしている。夢で見るのとかなり近い状況と言える。そういえば、学部でも留年して年下と同じ授業に出ていた。「なぜこんなことになっているのだろう」とよく考える。なぜこんなことになっているのだろう。

目が覚めた寝床のなかで「またこの夢だな」と思うこと幾度か。今日などは、まさに当の夢のなかで「あ、そういえばこんな夢、よく見るなあ」と思い、クラスメートに「ほら僕、こんな歳でこんなところにいるから、よく夢に見るんですよ」と言い、「っていうかこれがその夢か」と気づきながら目覚めた。

 

土曜日に見た夢とそれで考えたこと

土曜の朝のは、映画やアニメをモチーフにした参加型謎解き冒険遊園地の夢だった。先月USJとリアル脱出ゲームに行ったのが影響しているのだろう。この2つを混ぜたうえで、もっと複雑で大規模にしたようなゲームだった。屋内・屋外、フィールドを縦横無尽に移動し、行く先々で出会う人々と協力し、また競い合い、知恵を絞って議論し、さらに体を使って問題を解決してゆく。非常に総合的で大規模なゲームであって、終わりというものを考える必要すらほとんどないくらいだ。ディティールで覚えているのは、例えば、ある部屋で手に入った、大きな袋に詰められたたくさんの紙製のつぶつぶは、「サンドスター」ということになっていて、それを持っていくとその先の何らかの謎解きの鍵になるかもしれないというアイテムだった。

この夢を見て思ったのは、人が全力を振り絞って楽しいことをするとはどういうことなのか、ということだ。僕は、本当は、この夢で見たようなことがしたいのだ。音楽の演奏とか、サーフィンとか、ドイツゲームとか、作品の鑑賞とか、大人がする「趣味」と呼ばれているものはいろいろあるけれど、それらは所詮趣味にすぎない。鑑賞なんてただの消費だし、演奏やらスポーツといった活動をしてみても、それは本職の人のまねごとであって、現実の世界を動かすわけではない。全力で楽しむには、「ごっこ」ではだめだ。わくわくするような冒険の主人公は、「楽しもう」なんて思ってそれをやるのではなく、やむをえない重大な事情のために冒険するものだ。だから、大人が本気で楽しい思いをするには、重要な仕事に全力で取り組むしかない。子供が「ごっこ」の遊びをあんなに全力で楽しめるのは、子供という存在自体が大人に対する「ごっこ」の位置にあるものであって、そうであることがかれらの本職だからだ。

 

ミュータントたち(2017年6月1日の夢)

ミュータント化があたりまえになっているのは空恐ろしいことではあるが、流派ごとの制約は厳格に守られているようだ。例えば、流動化を許す流派と許さない流派がある。だが、そうした「制約」は、昨今のミュータントがいかに途方もなく大胆なものとなっているかを逆説的に示してもいるようだ。感覚の数を増減させることを禁忌としている者たちがいる一方で、個体間の境界すらあいまいにしてしまうようなミュータントも、一部ではまかり通っている。獣化など、おとなしいほうだ。

ミュータントたちの集う場所に出入りし、ミュータント・バトルを繰り広げているうちに、しかし、実態はそれほど真剣なものでもないということが、ぼんやりと、わかってきた。どうやら、「あまりにも何でもありだとつまらないから」という軽い気持ちでそうしているだけらしい。そもそも、バトルで身体が傷ついてもどうせミュータントでどうにでもなるので、本気でやってはいないようだ。

 

婚活の仕事(2017年6月1日の夢)

婚活のようなことをする職場で働いている。僕にとっては、候補の女性たちと会話するなかで適切な相手を選ぼうとする活動であると同時に、“お客様”である女性をもてなす仕事でもある。僕なりに一生懸命やっていたし、評判も悪くないはずだった。

しかし、知らないうちにかなり早い段階でアンケートが行われており、僕については全ての女性が「可能性を感じない」と回答していた。その理由は、婉曲的な定型表現で書かれてはいたが、要は、「フリーターだから」ということだった。

それなら、いくら愛想をふりまこうが、その場では仲良くなろうが、なにもかも無駄だったわけだ。失望と憤りを覚えたが、同時に、「本人のためを思ってあえて伏せておいたのだ」という言い分も、わからなくはない。可能性があると思っていたからこそ、この仕事を楽しく続けてこられたのだ。一般的に見ればわずかな収入にしかならない仕事かもしれないが、僕にしてみれば、これで生活の糧を得ている。

英国におけるハンガー(衣紋掛け)の発達(2017年5月31日に見た夢)

疑問符状の鉤を取り付けた横木だけのものから、その両肩の部分に紐を巻いたもの、さらに、紐で数本の細長い板を括ることで縦に厚みを加えたものへと発達した。

このころ、ロンドンの街路では、仕立て屋の目印として軒先にハンガーを吊るしてある光景がしばしば見られた。